南武線通過連絡運輸の続き

昨日、書く時間が無かったので、続きです。
まずこれを見てください。

これは現在の交通事情。
神奈川県と東京西部の地図ですが、黒い太い線が南武線になります。
こうして見ると南武線は東京都心から結構近いところを走っているのが分かります。
緑の太い線が山手線。
赤い線が東急。
青い線が小田急
ピンクが京王線
そして黒い破線が今回の制度廃止の遠因となった横須賀線です。
南武線沿いの水色の線は多摩川になります。


さて、制度自身のおさらいですが、この制度は以下の条件がありました。

1.南武線の指定駅から山手線内の各駅に行く場合
2.乗る駅から降りる駅まで一挙に買う

この2つを満足した場合、下記の駅から条件をあてはめられました。

武蔵小杉経由で東横線を使う場合の南武線の範囲:矢向-宿河原
登戸経由で小田急を使う場合の南武線の範囲:南多摩-武蔵中原

さて、ここで疑問が出てくると思いますが、溝の口では田園都市線を使って渋谷に行くこともできます。
現に南武線で一番人が利用する区間武蔵溝ノ口-武蔵小杉の間で、ほとんどがどちらかの駅で東急に乗り換えて都心に向かいます。
またちょっと遠いですが稲田堤では京王相模原線も利用できます。
それなのになぜ登戸で小田急利用と武蔵小杉で東急利用しかなかったのか?
これにはこの制度ができたと思われる時期と、その時代背景があるかと思います。


先にも書いたとおりこの南武線の通過連絡運輸制度は、昭和40年代にはすでに存在した可能性を示唆しました。
ということでこれをご覧ください。

これは制度が設定されたと思われる昭和40年代のころの交通網です。
ここで気がついた方がいるかと思いますが、京王相模原線は京王多摩川までの開業。
(京王よみうりランドに延長して京王稲田堤ができたのは昭和46年)
溝の口で乗り換えて田園都市線を利用する際も、二子玉川から先が未開業。
当時は路面電車規格の玉川線というのが二子玉川-渋谷を結んでいましたが、玉川通り(後の国道246号)の交通量増加による交通事情の悪化と、首都高3号線の建設のため昭和44年に廃止になっています。
その間ここはバス代行になります。
変わりとして建設された田園都市線の地下区間(当時は新玉川線)の開業は昭和52年。
しかし開業当初は二子玉川-渋谷の折り返し運転で、田園都市線との直通が始まったのはその2年後の昭和54年です。


つまり昭和40年代の南武線は立川で中央線、分倍河原京王線、登戸で小田急線、武蔵小杉で東急東横線ぐらいしか都心に抜けるルートが無かったのですね。
それでこんな制度が始まったのかと思います。


この後、時間があれば追記